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羽生市の紹介
加須市 羽生市 行田市

♦  支部長あいさつ  ♦

羽生支部
支部長 角田 裕史

  羽生支部の歯科保健活動についてご報告します。
羽生市は、学校歯科において全国的に見てもトップクラスで、学校の先生方はじめ、子供たちの努力もあり、毎年の様に歯科保健優秀校に選ばれております。
歯科医師会としても多少ながら貢献していると自負しております。
しかし、これに満足することなく、歯科の最終目標である、『一生自分の歯で美味しく食べられる』を目指して日々活動を続けていきたいと思います。
そのためにも地域住民の皆様におかれましては、特に歯周病予防に留意し、年に2回の検診を心がけて頂き、その際歯周病予防の方法等お尋ねいただければと思います。
地域の皆様、行政の方々、歯科医師会のメンバー、皆で協力してがんばっていきたいと思います。

市民向けの主な活動は次のものです。

    ・  幼稚園、保育園(所)、小学校、中学校、高校の健診(小・中は2回)
    ・  障がい者施設の健診
    ・  高齢者大学(公民館)での講話
    ・  高齢者障がい者の口腔ケア講習会
    ・  フッ化物塗布
    ・  6月から12月までの成人歯科健診
    ・  小学校、中学校フッ化物洗口(週1回法)
    ・  1歳6ヶ月、2歳、3歳健診(毎月)
    ・  親子歯科教室
    ・  ママパパクラス(妊婦歯科指導)
    ・  歯と口から考える子供たちの健康つくり研修会    等

以上、随時に市の広報誌等でお知らせしております。
羽生市歯科医師会は、行政と一緒になり市民の皆様方の歯科保健向上に努めています。
この機会にこれらの事業に興味を持ち参加してくださると幸いです。


♦  江戸時代から青縞で栄えた衣料の町  ♦

  羽生には利根川の水利と肥えた土地があったため古代から人が暮らしていました。鎌倉時代には千葉氏の一族で羽生太郎を名乗る豪族がいたことから、この頃すでに羽生の地名は確立していたようです。 また、 塚や古墳から出土する「埴輪」が「羽生」の語源と言われています。
  羽生では古くから綿花の耕作が盛んに行われていました。地場産業としては隣接する行田の足袋が有名ですが、江戸時代になると羽生でも「紺」が盛んに生産され、独特の「青縞」に人気が集まりました。 「青縞の市」が立ったことでも分かるよつに羽生は衣料の町として栄えはじめたのです。
  明治以降は発展する東京の食を担う穀倉地帯として重要な役割を果たします。おだやかな気候と豊かな大地を持つ関東平野では自然と産業が溶けあい、人々の暮らしも順調に近代化されて行きました。 羽生では明治の中頃にはミシンが入り、 大正の終わり頃には電動ミシンがいち早く導入されるなど、全国に先駆けて衣料を産業として構築しました。
  昭和になるとその実績が実を結び、 衣料中心の総合工業都市として栄えました。  現在の羽生市は埼玉新都心に近い商工都市としてさらに発展するとともに、自然と親しみながら生活できる住宅地として注目されています。伝統と進取が調和した県北の中核都市として一層の発展に努力しています。


♦郷土が生んだ人 幕末・維新の偉人 清水卯三郎

清水卯三郎  世界を舞台に活躍した清水卯三郎は、 ひとつの肩書きでは紹介できない程のスケールで歴史に大きな功績を残した人物です。

  1829(文政12)年3月4日に武州羽生村に誕生。 13歳の時、商人見習いに出ますが17歳の頃には学問を志します。 29歳で勝海舟・緒方洪庵と知り合い、 世界観や語学に一層の磨きをかけます。 薩摩藩と英国が交戦した。
  1863(文久3)年の薩英戦争では、英国軍艦に通訳として乗艦。 のちに明治維新の偉人となる寺島宗則を救い、また和平の斡旋に尽くしました。
  1867(慶応3)年にはパリで開かれた万国博覧会に参加して日本の製品を紹介し、特に水茶屋で着物姿の日本女性が人々を接待するというアイデアに人気が集まりました。 博覧会終了後、 欧米を経由してさらに見聞を広めた卯三郎は、帰国すると東京日本橋石町で「瑞穂屋」を経営。 西洋書籍・活版印刷機・石版印刷機・陶器着色顔料・歯科器材などを販売します。同時に家業であった薬種商も始めました。
  1872(明治5)年には政府に「万国博覧会日本開催建白」を提出。時期尚早として却下されますが、 それから98年後の昭和45年大阪万博まで万国博覧会は開催されませんでした。 卯三郎の見識は、 まさに100年進歩していたと言えるでしょう。

  さて、 西洋の歯科医療器具類を日本に紹介したことも卯三郎の大きな功績です。明治8年にはアメリカから最新の歯科器具を輸入し、以後も積極的に輸入を続けました。 明治24年には「歯科雑誌」を創刊、その後は歯科関連図書を多数刊行するなど歯科医療の近代化に貢献します。
  1910(明治43)年に82歳で逝去し、 東京都浅草区松葉町(当時)の乗満寺に葬られましたが、関東大震災で乗満寺は東京都世田谷区北鳥山に移転し、卯三郎の墓も、 ともに移転しました。 後に無縁仏となり、平成10年10月10日、 羽生市と、 当歯科医師会第2支部が中心となり、卯三郎の墓を羽生市正光寺に開眼もどしを行い、移転させました。 11月6日には、 開眼式並びに記念式典が盛大に行われました。(瑞穂屋卯三郎編・歯科専門書の資料43項掲載)


♦  郷土の風物詩  ♦

  ・さいたま水族舘

  羽生市の宝蔵寺にある県営さいたま水族館は、 埼玉県に生息する魚などを集めた淡水魚専門の水族館です。 教育・研究・娯楽の機能を持ち、 自然と親しみながら魚類の生態を学ぶことができます。
  天然記念物のミヤコタナゴ、 ムサシトミヨをはじめ、 日本ではここだけに生息している珍しい食虫植物ムジナモなどが人気を集めています。 元気な子どもたちや散策をする人々がいつも訪れています。

  ・「田舎教師」 文学散歩道

  田山花袋が明治42年に発表した「田舎教師」の舞台が羽生でした。 「田舎教師」は実在の青年小林秀三の日記をもとに、 当時の羽生の地理・生活・風物をありのままに綴った長編小説。 主人公は貧困ゆえに進学できず教師となって赴任、 音楽や文学に魅かれながらも若さゆえの苦悩とともに生き、 胸の病にかかり21歳でこの世を去るという物語です。
  羽生市内では、 登場する弥勒高等小学校跡、 建福寺、 八坂神社の祭礼などをめぐる文学散歩が楽しめます。

  ・関東一の藤の大樹

  大天白神社の境内には関東一を誇る藤の大樹があります。 この藤は、 子育ての守り神として古くから多くの人の信仰を集めてきました。 大樹は見るからに雄々しく、 春になると美しい花をたくさん咲かせます。
  毎年5月の初めになると藤まつりが開催され、 多くの人が遠方から訪れて花見を楽しんでいきます。



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